もし、今ここに来られたあなたが、「勝っているのなら、ギャンブル依存症は問題にならない」などと考えているのなら、それは大きな間違いだ。
そもそもバクチに勝ち負けなど存在しない。なぜならバクチが遊びの一種であり、その利益が主催者側にのみ発生する仕組みになっているからである。
かつてのボクのようにたまたまの勝ちが続くと、「俺は負けない」などと錯覚する人が居る。だが、それも大きな間違いだ。確かにプロという人たちは存在する。しかしながらここでいうプロ達にとって、パチ・スロとはバクチではない。生活の糧を持って帰るための一手段なのだ。
例えゴトであろうとイカサマであろうと、ホールからゼニを持って帰る。彼らの使命は単純であり明快である。その為の手段などどうでもかまわない。
このあたりについては、以前に書いているので参考にしていただきたい。
パチプロごっこ
1回生から3回生までの頃のボクは、必須の授業がある日以外は朝一からパチ屋、その後はクラブ、夜は家庭教師か学友と一緒にマージャンという毎日だった。
それでも、そのあたりの学生に比べたら数倍裕福だった。よくあんな生活をして体が持ったものだと思う。
4回生になると授業が語学1科目とゼミだけになった。当然クラブも引退になるから、暇が多く出来ることになる。
朝一からパチ屋の前に並び、夜までぶっ続けでやるか、その後は焼き鳥屋のバイトに行くか、それとも途中でマージャンの誘いが来るか、といった塩梅だった。
睡眠を3時間くらいしか取らずに遊び呆け、そのうちに唯一まともなバイトだった家庭教師も断り、パチかマージャン、それと焼き鳥屋でのバイトがボクの全てになった。
あの頃覚えて今役に立っているのは、唯一料理ができるということだけ。下宿代が4000円の三畳一間で暮した。そこに帰る目的はただ一つ、眠ることだけだった。
この頃になると、パチンコを手ほどきしてくれた先輩も卒業し、一人で黙々とパチ屋に出かけ、家の近所のパチ屋へ行くこともしばしばあった。いってみれば、パチプロごっこをしていたわけだ。
ところが、なまじ稼いでいるというのが始末が悪い。そういった経験のせいで、後年になってボクは大きな失敗をいくつもしでかしている。
身の程知らずだった頃
そういえば、こんなことがあった。駅前のパチ屋では時々隣の家のダンナと出会った。 向こうも見て見ない振りをしていたから、こっちも気まずかろうと無視していたら、そのオヤジが散髪屋でボクのことを話したらしい。
そのことがウチのオヤジの知るところとなった。或る日散髪に出かけたオヤジが、主からこう言われた。「いやー、オタクの息子さん、いつも出してるらしいですな!」
帰ってきたオヤジに、「お前は、何の為に学校に行っているんだ!」とどやされた。もっともあの頃のボクは、パチ屋=収入だったから、全くそんな言葉に耳を貸すことも無かった。
「勝ってんだ! 何の文句があるんだ!」ってところかな。いつも負けて帰る隣の家のオヤジのことだ、どうせ妬んで言いふらしやがったんだろうと思っていた。
「悔しければ、勝て! 勝てないヤローが、ウザウザ言うな!」「俺はいつでも、パチ屋さえあれば好きなだけ稼いで来れる。」くらいに考えていた。今考えると、身の程知らずも甚だしい。
世間を舐めきった青二才の誕生
そんなボクだったが、さすがに4回生の夏になると就職活動を始めた。
体育会系の強みは、各企業にOBが居ることだ。ボクは大手の会社へ新入社員募集の資料請求をする一方で、OBを頼って会社訪問をし始めた。
オヤジのスーツとタイを借りて、6月頃から何件もの会社を回った。あの当時新卒の学生は売り手市場で、突然の訪問であっても別室に通された。そして人事の人が資料を片手に、熱心に話を聞いてくれるってわけだ。
こんな調子だから、愚かにもボクは勘違いしてしまっていた。「就職なんて、チョロいもんだ!」そう思ってしまったのである。今考えると生意気な、どうにもならない学生だったと思う。
会社によっては、初訪問の時に面接して内定まで仄めかす(ほのめかす)所も有った。勿論、交通費は全額支給で出張費という名目で手当まで出してくれた。当時、青田買いは紳士協定で禁止されていたが、守っている企業など1社も無かった。
世間知らずの青二才だったにもかかわらず、ボクは夏休み中に既に大手の会社から内定通知を4~5件貰った。
「就職なんて、チョロいもんだ!」
「人生なんて、楽なもんだ!」
「これで楽勝だ!」
「俺は、幸せになるのが当たり前だ!」
そう思って、いい気になっていた。「受験の地獄はこういった為にあるのか。なるほど! これならば納得だ。学歴ってやつは、実に役に立つもんだ!」
21歳の頃、浅はかなボクはそう考えていた。就職ばかりか、社会や仕事まで舐めきっていたのである。(続く)