パチ・スロ全盛期の頃
今回徒然に書いている記事は、そもそもボクが損保会社の営業社員だった頃の想い出話を綴っているものです。今考えればボクは、既にそれよりも前にギャンブルに依存していました。
ですがあの頃は、毎日のようにパチ屋に通っていた時期だったといえます。
時代でいえば、1980年中頃から1990年前半にかけてといったところでしょうか。ちょっと不謹慎な話で恐縮ですが、当時流行っていたパチンコ機は平和のブラボー・レーザースペィシーやスーパーコンビ、スロット機ではヤマサのパルサーXXかユニバーサルのトロピカーナが全盛の頃でした。
・一発台
・フィーバー機
・電役機
・権利物
・羽根物
・アレパチ
・スロット機
パチ屋にはこれらの種類の機械が並んでいて、パチンコ産業がどんどんと成長し続けた時期でもありました。おそらくですが、依存者が急激に増えたのもあの頃でしょう。
では、例によって「たわ言モード」に戻ります。
80~90年代のパチ屋は
そういえばその頃、ボクは行きつけのホールで「保険屋」というあだ名で呼ばれていた。下町のど真ん中、しかも商店街に近いとあって、そのホールに出入りしていた連中は十人十色だった。
・店舗をいくつも持っている質屋のボンボン
・なぜか昼間でもいるサラリーマン
・腐るほど金を持っている未亡人
・パトロン待ちのホステス
・幼稚園送迎バスの運転手
・有名割烹店の板前長
・年金暮らしの夫婦
・呉服屋の店主兄弟
・不動産屋の社長
・中華の調理人
・居酒屋の店主
・パチ屋の店員
・寿司屋の倅
・女子高生
・愛人さん
・美容師
・ホスト
・税理士
・公務員
・ダフ屋
・ノミ屋
これから、それらの人物の中で印象に残っている人について書いていきたいと思う。
腐るほど金を持っている未亡人
とあるホールの常連だったオバサンに、一人の未亡人がいた。驚くほどの資産家だと聞いたことがある。何しろ、持ち物と服が違うのである。
40過ぎたオバサンが、パチ屋へシャネルのスーツやワンピースを日替わりで着てくるものだから、いつも他の客から「ある意味一目」置かれていた。バッグはもちろんヴィトンで、靴は何だかかわいい蝶飾りが付いた、高そうなやつばかり好んで履いていた。おそらくフェラガモだったんだろう。
そのオバサンがまたなんというか若い子が好きで、台など関係なく若い男がいると遠慮なく横にベッタリと座って少し胸元を開けた体をすり寄せた。店内がガラガラでも、お構いなしである。ボクも何度かヤラれた。横に座られるとプワゾンだか何だか知らないが、どぎつい香水の匂いがプンプンした。
ある日のこと、同年輩の顔見知りの会社員がお茶に誘われた。そしてそいつもノコノコと付いて行ったというのだから、もうホールの常連たちは興味津々である。
さぞかしたくさんの貢物でも頂戴したのだろうとボクが彼からあれこれ聞くと、パチ屋の中ではイジイジしていても、喫茶店では厚かましく喋るオバサンだったらしい。
彼は「付き合いせえへん?」というお誘いを丁寧に辞退したらしいが、その途端にプイと席を立ち、結局お茶代もワリカンだったという。余りのお粗末さに、皆で笑い転げたことを思い出す。
なぜか昼間でもいるサラリーマン
それとあの頃は、なぜか昼間でもスーツにネクタイ姿の会社員がけっこうホールには居たように思う。ボクが勤務していたF火災には、かなりたくさんの強者がいた。出禁を経験した奴が、ボク以外に少なくとも2人はいたからね。保険の稼ぎよりもパチのアガリの方が多い奴も何人かいた。
悲しい話といえば、一人の中年サラリーマンのことを思い出す。彼はたしか、自動車ディーラーの社員だったと思う。彼は、ボクが出入りしていた店の常連客だった。ある日のこと、彼がボクの横に座ってポツリと言った。
「キミ まだ若いやないか こんなことしてたらアカンで」と。しかしながら彼はボクにそう言いながら、いくらヤラれてもホールを離れなかった。
そんな彼もいつしかその店に来なくってしまった。しばらくして風の頼りに聞いた話では、会社の金を使い込んでスロットをしていたのがばれて解雇されたとのことだった。
あの頃からパチ屋というところは、寂しい人の吹き溜まりだったように思う。そしていつも、なにかしら悲しい話が有った。(続く)
※一連の記事は、ブログ「ギャンブル依存症克服への道」から抜粋しています。