保険屋時代 その2

2数字ってなんだ?

当時、ボクがいた保険会社は完全実力主義の世界だった。というか当時の損保業界は実績さえあげていれば、それで何もかもが許された世界だったといえる。

社内営業しょうが値引きしようが、はたまた保険料を立て替えようが、たとえ出社しなかったとしても、たった一つのルールさえ守っていればなんということはなかったのである。

先の記事でも書いたが、そのルールとは「数字」である。では数字とは何か? それは月末の社内会議におけるノルマの数字=額だった。

支店に居るマネージャーから課されたノルマを達成する。これが唯一、我々の義務だったといえる。また逆にいえば、それさえ達成していれば、何をしても文句など言われることもなかったのである。

ボクがいた支店は大阪市内にあったが、ちょうど道路を挟んで向かいはパチンコ店だった。さすがにボクはそこに出入りしなかったが、勤務中に堂々とそのパチンコ店で時間を潰す猛者も多かった。

保険外務員の1日

あの頃の外務社員は、朝のひとときをお気に入りの喫茶店で過ごした。ゆっくりとコーヒーを飲んでスポーツ新聞を広げ、仲間たちとおしゃべりをしてから、おっちらと腰を上げるのである。出社するのはおおかた10時くらいだったろうか。会社の始業時間など、有って無いようなものだった。

保険料の入金がある時だけ、会社に顔を出す人も多かった。そして午前中に入金業務を終えると、殆どの社員がいそいそと姿をくらました。

彼等の行き先の多くはパチ屋だった。仕事など月末に集中してやればよいので、普段の日は遊んで暮らしている社員が多かったわけだ。

今考えてみるとこのボクも、ああいった職場環境で悪いことばかり覚えてしまった。営業で成功するには、自己管理が大切だと今つくづく思う。

数字は命

ボクが入社した時のマネージャーは、数字を作るためならなんだってやる男だった。またボクらにどんなことでもやらせた。支店の目標を達成するためなら、手段を選ばないガチガチ人間だった。

契約の先食い(来月の契約を早く締結すること)を強制したり、自分のポケットマネーを差し出して保険料を平気で立て替えさせたり、今じゃ考えられない話である。

営業会議の席で、数字達成が困難な人物がいれば平気で罵った。社員の中には会議中に泣き出す人物までいた。このボクも一度、「数字が作れないなら死ね!」と言われたことがある。

悔しい思いをすれば、なにくそと頑張るのが当たり前なのだが、あの当時のボクは一層仕事をしなくなった。会議が終われば、すぐにパチ屋へ出かけた。

何もかもがいい加減だったあの頃

当時、ボクがいた損保業界もひどいものだったが、まだまだ上には上がいた。その業界とは、募集取締法で統治されていなかった共済である。

そのいい加減さと手ぬるさにかけては、並みの業界じゃなかっただろう。彼らは当時禁じられていた値引きなどお茶の子さいさいと会社ぐるみでやってのけたし、金をばら撒いて契約を釣るなど日常茶飯事だった。だから競合しても相手が共済だと、まず勝ち目がなかった。

ボクは共済のやり方に何度か驚かされたことがある。契約者に泣きつかれて、事故後に保険を締結するなど当たり前に行われていたからだ。代理店の手数料も共済は格段に高かった。火災共済など、3割から4割の手数料というのが当時の相場だった。

今考えてみれば、どの業界もひどいものだった。知り合いの銀行員も勤務終了後近くの雀荘で、高額の賭け麻雀をやっていた。今なら内部告発されて、チョンだろう。

生保業界では、もっと熾烈な数字管理が行われていた。ボクは頼まれて自分の名前を貸したことがあるし、その天ぷら契約が失効した時自宅に生保会社から電話してこられたこともある。怪訝そうな声で「なんでそんなに高額な契約を結ばれているのですか?」と。

話には聞いていたものの、本当に生保レディーの枕営業があることを知ったのもあの頃だった。(続く)

※一連の記事は、ブログ「ギャンブル依存症克服への道」から抜粋した物です。

奥井 隆
奥井 隆
2 市民団体 ギャンブル依存症克服支援サイトSAGS 代表
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