ボクがパチプロになれなかった理由 最終回

2天井を嫌う人たち

の国に今以上の賭博を導入しようとしている人達は、口先でどんなに立派なことを言っても所詮売国奴です。ギャンブルに天井を設けることに反対する人は、「大酒呑んで暴れ回らないと 呑んだ気がしない」と言っているに等しいのです。

我々がギャンブルにまみれた国を建て直すには、賭け額の上限を決め、義務教育の段階で賭博の恐ろしさを子供たちに教え込むしかありません。

さて、前回の続きです。

チンケなプライド

TNTいろいろな人に「なぜタカビーさんは そこで踏み止まれたのですか?」と尋ねられる。また逆に当時は、知り合いのプロたちから、「お前はなんで 2足のわらじを履くねん?」とか「会社なんか やめてまえや!」とか言われることが多かった。

実際彼らにしてみれば、凌いでいるくせにその風体がスーツを着た会社員というのが気に入らなかったのだろう。だが当時、ボクがいた保険会社は違った。簡単にいえば、ボクを含めハンパなく達者な社員が数名居たのである。

そういった好ましくない環境に居たから、ボクも全く罪悪感など感じなかった。仕事をサボれるだけサボって、毎日パチ屋に通っていた。

そんなボクがとことん転落しなかったのは、最後まで自分自身を手放す勇気がなかったからだ。逆にいえば、そこまでできる根性がなかったということである。プロになる禊というものは、「他のプライドや邪魔ものなど一切かなぐり捨て パチンコだけで喰う」ということに他ならない。2足のわらじを履けるプロなど、存在しないのである。

ではあの頃、ボクのブレーキとなったものは何だったのか? それは吐き捨てるほどつまらないものではあったが、「大学を出た」というチンケなプライドだった。

だがそんなつまらないプライドのおかげで、ボクは最後まで堕ちはしなかった。今考えれば、受験をくぐり抜けた経験というものが多少は役に立ったのかもしれない。

手段は後からついてくる

ここで当時のプロについて書いておく。

当時のプロというものは、まず喰うための機種を選び、朝一から並んでそのうちの1台を確保して終日回すのが常だった。つまり、「喰えると決めた機械を 一日かけて舐めつくす」というスタイルだ。そして座った限り脇見など一切せず、抜き終わってクギが締まる日まで同じ台を打ち続けるのである。

以前このブログで書いたが、「通常は賞球が1個しか出ないスペックなのに、壊れて15個出てくるフィーバー機」を定休日以外毎日通って抜き切ったプロがいる。ホッパーが故障し、どんな子役でもコインが20枚くらい出てくるパルサーを喰い尽くした奴もいた。

このように「甘い機械や壊れた機械を喰い尽くすこと」を時のプロたちは「追う」と呼んでいた。追うためには、一日中パチ屋に居る必要がある。既にあなたはお気付きだと思うが、2足のわらじが履けない理由とは、途方もなく長い時間が必要だということである。

そして、追う台の善し悪しで稼げる額は大きく変わった。当たり前のハナシだが、喰えない台を追っている奴は勝つどころか店にとって良いカモになった。

もう一ついえば、喰うための手段というものは覚悟さえあれば後から付いてくる。店員と組んで一発台の放り込みをしようが、コインをちょろまかそうが、ようは銭になればいい。プロとはそんな世界だった。根性のない奴は、プロになどなれるわけがないのである。

そして今、ボクは思うのだ、あの時プロになれなかったことは、本当に幸いだったと。プロになっていれば、今のような活動をすることもなかっただろう。この歳になって、妬み・僻み・嫉みの世界に尚居続けたことだろう。そしておそらく、ここに居られるあなたとお会いすることもなかっただろう…。

このことを、今何よりも嬉しく思う。

※一連の記事は、「ギャンブル依存症克服への道」から転載いたしました。

奥井 隆
奥井 隆
2 市民団体 ギャンブル依存症克服支援サイトSAGS 代表
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