マカオでは、中国政府による「カジノ規制」と「マネーロンダリング防止策」がマカオを失速させた。その背景だが、カジノ偏重に抗議するマカオ市民によるデモがあった。中国政府にとって、腐敗防止策と共に市民の批判をかわす意図もあったといわれている。
では日本の場合はどうだろうか? 一見、ギャンブル依存症対策については万全を期しているように見える。日本政府においては2017年にIR設置の指針として、「仲介業者(ジャンケット)を徹底的に排除してマネーロンダリングを防ぎ、カジノ施設内にATMも設置しない」と言明した。
だが皮肉なことに、あのマカオはそういった一対策のせいで売り上げが激減し、今瀕死の状況なのだ。「ギャンブル依存症から自国民を守る」「クリーンなカジノを目指す」という姑息な言い逃れが外貨の流入にストップをかけるなど、関係者達はおそらく思いもよらなかったのだろう。
だが、これまで何度も書いてきているが、バクチによる堕落と腐敗を防ぐには「投資に上限を設ける」しか無いのである。今まさに、中国政府が行っていることだ。
そればかりではない。実現するかどうかは別として、誘致するまでの間、政府も自治体も準備に莫大な費用を支出をし続けねばならないのである。これでも日本政府はIRを推進し、我々の血税を溶かそうというのだろうか。
「とっとと諦めなさい!」 私は声を大にして申し上げたい。
日本のカジノが失敗する理由
おそらく日本でカジノを開帳したところで、そうそう中国人客が来ることはないだろう。それにはいくつかの理由が有る。
一つ目の理由は、先ほどから書いているように中国政府によるカジノ渡航制限などの「賭博禁止政策」である。ちなみに中国においては元々、海外か特別区以外での賭博は法律により禁じられている。今の中国は、自国民の堕落に敏感な国家といえる。
勝手に中国の富裕層というターゲットを設定し、インバウンドを当て込んでいたら痛い目に遭っても当然だろう。
8月には特別に広東省からマカオへの渡航制限が解除されたが、こういった一国の政策で浮いたり沈んだりする事業など、最初から手を出すべきでは無い。
二つ目が、中国政府による経済政策である。中国政府にしてみればマカオの存在は痛し痒しなのである。マカオは一国二制度の元、カジノで繁栄し続けてきた。
とはいえ、そのマカオが不況になったとしたら黙って見過ごすわけにもいかないだろう。そういった観光収入が他国に渡るということになればどうなるか? それは想像に難くない。
例え日本がIRを造ってカジノを誘致したとしても、日本への「カジノ渡航制限」を実施するのでは無いだろうか? 観光収入をみすみす他国に差し上げる必要など、全くないのだ。中国政府による8月のマカオへの渡航解禁がその証拠である。これは、ライバルの復活といってもよい。
三つ目が世界的に見るカジノの斜陽化である。ここ数年で、オンラインカジノが急激に増えた。違法かどうかというグレーゾーンの中でも、日本国内で利用者が急増している。
感染のリスク、路銀と宿の出費、時間的な制約など、面倒な物がオンラインカジノには全く存在しない。好きな時に好きなだけパソコンの前でプレイできるのである。中には、「本物の臨場感が無いと面白くない」と言う人もいるだろうが、いずれはそういった人たちも少数派になっていくと思われる。
世界的に見て、カジノはもう時代遅れの遊戯になりつつあるのだ。ましてや、今回のような感染症が流行することを考えれば、カジノ誘致がどれほど大きなリスクを背負ったトンチンカンな成長戦略か分かるだろう。はあまりにも大きなリスクといわざるを得ないのである。
アブク銭より 新しい雇用の創設を
そういった幻に無駄な金を使い続けるなら、GO TOなどよりももっとマシな景気刺激策をしっかりと腰を据えて考えれば良かろう。産業構造を変えることに力を注げば良いのである。少し前、「移民を推奨して、労働力不足解消を」という馬鹿げたことを言っていた方もいたが、とんでもない話である。
今は、都市への一極集中を無くす一方で、日本の産業構造における一次産業の比率を底上げすべき時なのである。一次産業は高齢者に優しい職場ともいえる。現実に「老後は畑を…」とか「老後は片田舎で」と考える人が多い。
そういった傾向は何も、高齢者のノスタルジーばかりでもないだろう。シルバー人材センターなどを見るとよく分かるが、シニア達は働きやすさを求めているのである。産業構造を変えれば、おそらくだが高齢者の雇用に新しい道が開かれる。
いすれにせよ、カジノのような「リスキーで実態の無い雲をつかむような儲け話」に乗るのは、何としても阻止しなければならない。
10年先の子供達が、「日本は観光立国を目指してカジノを誘致しましたが、失敗しました」と書かれた社会の教科書を読む姿を想像して欲しい。少なくともこの私はその子達から、「何てことを!」とはいわれたくないのである。(奥井 隆)