劣等感を持っている人物ほど、他人に対する評価が厳しく自分に対しては甘い。そして殆どの人が、心の傷を隠すために自分を大きく見せようとする。
プライドが高く、自分以外は信用しない。そういった高慢ちきの裏に劣等感が隠れていることが殆どだ。青年期のボクが全くその通りだった。
社会人になって
今日から、ボクが社会人になってからのことを書こうと思う。とにかくこうして、このクソ生意気で鼻持ちならぬ若造は娑婆に出ることになった。
あの頃のボクは世間を知らず、実力も無く、そのくせ全てを小バカにしたようなガキだった。全く身の程を知らない最低なヤローだった。
東京に本社がある某企業に就職したが、ハナから仕事を真面目にしようという気など無かった。最初は新入社員研修だったが、適当に誤魔化しながらチンタラと消化した。
その一つの理由として、ボクの実家の家業のことがある。彼らが苦労して取らねばならない資格を、ボクは既に持っていたからだ。
しかも家業を手伝った経験があったので、研修の内容は殆ど知っていることばかりだった。だから、いつでもこう考えていた。「いつだって頑張れる、頑張れば訳ないことだ! オレはそれだけの資質を持った人間なんだ。」「そう! 頑張ればできる。今はしないだけだ!」
言い訳ばかりして何もやらなかった。こういった考えが大きな過ちだと気付くには、かなり長い歳月が必要だった。そもそも「自分は他の奴らとは違う!」こういった考えは、往々にして大きな錯覚であることが多い。
「オレは、やらないだけなんだ。 本当は出来るんだ!」こう考えるヤローは、やらないのではない、本当にできないのだ。
相変わらずのパチ屋通い
ボクは適当に新入社員研修を受けながら、平日の夜は同僚と遊び呆けた。休日は寮の近所のパチ屋へ出かけた。勿論、遊ぶ金を稼ぐ為だ。
あの頃、東京・横浜近辺のパチ屋は甘かった。とにかくプロが少ないのだ。台も選び放題、釘も素人が多いのでそれなりに大きく開けられていた。
大阪のパチ屋は客のレベルが高かった。だからシッカリと台を選ぶ必要があったし、レベルの高い打ち方が必要だった。
ところが東京に来てみると、来ているのは皆お客さんばかりである。ボクは行く度に稼いでくることができた。そして稼いできた金は、湯水のように使いきった。
こうしてボクは土日は同僚からの遊びの誘いも断り、毎週末パチ屋へ稼ぎに出かけていた。
しばらくたって社員研修が終わる頃、我々新人は各地の関連会社に出向し、そこで3年間販売の実習を受けることになった。
ボクが配属されたのは、茨城県にある販売会社だった。ここがまた、驚くべきいい加減な会社だった。
出向先で出会った堕落
営業といえど殿様営業で、販売してくれる店舗と少しばかりの得意先を回るだけ。1日に3件も回れば、もう仕事が無い。今考えれば、もっと業績を上げることもできたのだろうが、そこの販売会社の営業社員がそうはさせなかった。
ボクがちゃんと営業に行き始めると、回りの人間が途端にソワソワし始めた。そして4人くらいで僕を喫茶店に連れて行きこう言った。
「適当に仕事してれば売れるから、そうガツガツ回るなよ!」「販売店と仲良くしてりゃ、勝手に売れるっぺ!」
つまりボクに一生懸命仕事をするなというわけである。新人のボクが真面目に仕事をすると、その人たちの立場が無いってわけだった。
「タカビー君も、2年経てば東京に帰るっぺ! 東京に帰れば、大変だべ。ここではゆっくり仕事すればいがっぺ」
ボクにも異存なかった、またまた楽して過ごせるというのである。そして思った。「社会というところは、なんとも楽なところだ。そうか! このように後々楽をする為に、人はああも目の色を変えて学歴にこだわり受験勉強するんだ。」と…。
こうして、またぬるま湯につかったような毎日が始まった。どうしても行かねばならない得意先のみ訪問して、あとは喫茶店かパチ屋。
驚くべきことに、私の配属先の営業所の所長までもが勤務中にゴルフに行ったり、喫茶店でダベったりしていた。あの営業所内で適当に仕事をするというのは、公然のことであり、営業職の特権だった。
よくここまで堕落へのレールが敷かれていたものと今になっては感心するが、実際には真面目に過ごす人も多かったのだろう。
或る日のこと、得意先の社長に会った際、驚くような話を持ちかけられた。「お前、マージャンできるっぺ! 一晩、付き合え!」
得意先からマージャンに誘われることは、何度かあった。でも、この話は少しばかり違った話だったのだ。(続く)