依存は否認の病とはいうが
いよいよ今年中に、パチ屋からATMが撤去されるらしい。考えてみれば、ATMや1万円札が入るサンドがパチ屋内に存在すること自体大間違いなのだが、少しだけこういった異常さに気付き始める兆候が見られホッとした。
さて今夜からしばらく、家族側の立場について書いていきたい。
依存は否認の病といわれる。これはどういったことかといえば、私は2つの意味があると思う。
1. 自分が問題ある行動を取っていると感じていない
2. 自分が依存していると認めない
実際にギャンブル依存症の枠の中で考えてみると、これら2つになるというのが私の持論であるが、これは断酒などの自助グループにおける「2種類の否認」とはまた違った分け方なので、先にお断りしておく。
断酒会などにおける否認の片方は後者の、「自分が依存していると認めない」ということである。だが、もう片方は「酒にのみ問題がある」と考えることで、これは依存症ギャンブラーが「パチ屋さえ無ければ…」と心の奥底で怒りの炎を滾らせているのと同じことである。
ともあれ依存症ギャンブラーにとって一番の問題となるのは、「自分が依存していると認めない」ということである。だが、立場が家族側ということになると、状況が少し変わることになる。
家族側に存在する「否認」とは
先に申し上げておきたいが、私は今後、できる限り「共依存」もしくは「イネイブラー」という言葉を使わないように心掛けたい。その理由だが、これらの言葉が医学的にも人道的にも、あまり根拠の無い語彙だと感じるからである。
私はこれまで、家族側からの相談に対してあまり深く考えもせずに、それらの言葉を振り回してしまった時期がある。だがいろいろと相談者さんたちに聞くと、明らかにそうでは無いと考えられる人が家族会に行った時、「あなたは…なのだから、まずあなたが自分を変えなければ」とか「あなたが変わらないのは…だから」などと言われ意気消沈したという話をいくつか聞いた。
実際にSAGSの掲示板においても、家族として参加された方が他の参加者から「あなたは…なんです」といった言葉をかけられたり、「依存者側の支援先は家族側と相容れない」「家族側の支援先は、…であることを前提に」などと主催者側が批判されたりすることがあった。これらの主張は家族側に対する「依存者だ」という決めつけであり、一方的な自己判断だったと私は感じている。
繰り返すが、先に書いた2つの言葉は医学用語では無い。あくまで本人の自覚によって判断されるべき「語彙」であり「状態」である。そういった理由から、私自身も今後これらの言葉を使うことはできるだけ控えさせていただきたい。
だが私は、家族として「本人を克服させない方向に動かせてしまう否認」が存在することは確かだと感じる。その否認こそが、先に書かれた1番目であり、「自分が問題ある行動を取っていると感じていない」ということである。
それは自分の行動に自信を持ち、他の者の意見を認めず頑なに拒み続ける姿勢ともいえる。相談者さんから話を聞くと、家族側の人がそうならざるを得ない事情が家庭内に存在することも見えてきた。
実際に依存症ギャンブラーは、社会に出たときと同じくらいナイーブで複雑な人間関係を家庭内で築いている場合が多い。中には、薄氷を踏むような気持ちで毎日を送っている方も存在するのである。(続く)
奥井 隆(タカビー)