高齢=尊敬では無い
尊敬という概念は、アドラーでいう承認欲求の塊じゃないかと仰る方も多いだろう。だが人にとって尊厳にどのような意味があるのかと問うたとき、ボクは一抹の疑問を感じてしまうことがある。
誰かを尊敬するというのは、自分がこれから生きていく目標が出来るということであり、自分もそうなりたいと願うことである。尊敬という概念は決して一方通行の物ではない。そしてそういった意味で、「尊敬すること されたいと願うこと」は生きる上で不可欠と感じるのである。少なくとも、私にとってはそうなのだ。
ここでふと浮かんでくるのは、尊敬に年齢なんか必要ないんじゃ無いかという疑念である。つまりそれは、高齢=尊敬と決めつけてしまうことに無理があるということでもある。ざっくばらんに言うと、若くても偉い人は偉いし、年配になっても自分のことしか考えられない人だってたくさんいる。
いやそれどころか、孫も居る年齢になっても、ずっと誰かに迷惑をかけ続けている人も多い。前回も書いたが、老いるということは往々にして「これまでできていたことができなくなる」現象だからだ。
本当に尊厳を求めるのなら、今後、高齢者はこれまでと少し違った生き方を選択する必要があるのでは無いだろうか? 私はこれまでSAGSの参加者さんたちに何度も申し上げてきたが、「自分が年老いたときに、孫に話できるのがパチンコとスロットのことだけだったら、悲しくは無いですか?」ということでもある。
今後 高齢者が残すべきこと
これは何も高齢者に限った話では無いが、武勇伝を話す人が多い。というか、自分では話していないつもりでも、周囲の人たちからそう感じられるというケースである。
自戒を込めて書くが、ボクの場合、失敗談を話していたつもりだったのに武勇伝と取られてしまったというケースが何度かある。もっとも過去の「やんちゃ」を書くと武勇伝と解釈されることが多いので、最近では自重していることが多くなった。
武勇伝を語って疎まれられる人についてだが、特に新しいことに取り組まず、自分を変えたり高めたりしようとしない人に、そういった傾向が強いようである。ひとことで言えば、前を向かず後ろばかり見ている人である。言わずもがな、その対象に該当するのは高齢者が多いだろう。
語るべきことは大抵の場合、武勇伝ではなく自らの失敗談である。なぜなら失敗談の中には、どうやってその失敗を乗り越えたかというノウハウがちりばめられているからだ。
高齢者が本来残すべきものは、自らの経験とそれから得てきた知識である。特に失敗談から得られることは多い。そういったものをシェアしていけば、尊敬は後から付いてくるのである。
残念ながら今後、高齢者が知識力でGOOGLE先生に勝てることは無いだろう。だが、これまで社会を支えてきた人たちには、GOOGLE先生とはまた違った力がみなぎっている。
そう考えてしまうのは、私の気休めなのだろうか。(奥井 隆)