「貸しを作った」と思い込んでいる人々
ちょくちょく世間で聞く言葉に、「借りが出来た」とか「貸しを作った」というものがある。ここで貸し借りの対象となっているのは、何も金銭だけではない。貸し借りとは、「世話になった」「面倒見てやった」といった言葉があるように、金銭の貸借以外でもちょくちょく使われる言葉である。
尚、英語でも貸し借り(borrow, lend)という言葉は存在する。貸し借り無しという口述が「square even」という言葉を使った表現としてあるから、貸し借りというのは日本に限った概念でもないようだ。
まあ人間とは唯一経済に基づき生活を営む動物らしいから、そういった意識があっても決しておかしいことではない。逆にそういったアドバンテージやハンディを意識しながら生きているというのは、人間固有の性質というか一種の渡世術なのだろう。
だが「貸し」ということについて、ちょくちょく錯覚している方が居られることも事実である。それはひとことで言うと、「自分は貸しを作っている」もしくは「貸しを作り続けたきた」と思い込んでいる人たちである。
通常の場合、借りがあるとか世話になったとか思い込んでいるのは、別段問題ない行為である。厄介なのは、逆のケースである。
今日は貸しという言葉について、書かせていただこうと思う。自らの貸しを自認するあまり、ギャンブルにハマって自滅する人が多いのである。
構造改革で変わった労働力の定義
多くの人が貸しとして感じる、その最たる例がサービス残業である。勤務時間を過ぎても働き続けることに対する不満を経験してこられた方は、たくさん居られることだろう。このサービス残業という言葉の「サービス」という言葉の響きに、私は違和感を感じるのである。
近年になって正規雇用よりも非正規雇用が主流となってきた。これはどういったことかというと、企業が賃金に対して過酷なまでコスト意識を持っているということである。
日本の国は、グローバル化を目指して様々な部門で規制緩和を行った。その顕著な例が小泉氏と竹中氏による構造改革である。グローバル化を目指した結果、企業は収益が悪化しコンプライアンスに追い回される事態となった。
しかも顧客(カストマー)がモンスター化し、市場における立場は完全に逆転してしまった。結果、各企業間の価格競争が激しくなり、労働力にコストカットを求めなければならなくなったのである。
と、少し話が横道にそれてしまったが、ようは「企業が労働者に対して 必要な分だけの労働力を求めねばならない時代」になったということは間違いない。このことは、「必要以上については、対価(賃金)を支払いません」ということでもある。
つまり逆にいうと労働者は、昭和の頃のように恩義を感じて企業に忠誠を誓う必要も無くなったのである。ところが、自分が請求しない残業時間を企業に対する貸しと考えてしまう人が居る。これは、時として大きな過ちにつながる錯覚だ。
サービスという言葉に潜む違和感
そもそも労働者と企業とは雇用契約でつながっている。裁量労働制や歩合給制をとっている業種もあるが、殆どの業種では「労働時間=対価(賃金)」となるのが通常である。企業は労働者に対して労働量(時間)に見合った賃金を支払う義務があるのである。
だがここでいうサービス残業とは一体何だろうか? それを簡単に書くと次のようになると思われる。
・勤務終了時刻を過ぎた労働に対して対価が支払われていない状態
このように書くと何か企業が一方的に悪いように思われる方が多いかもしれないが、その原因は様々で何も企業側だけにあるわけではない。
労働者側に「残業代をちゃんと請求する意思が整っていない」もしくは「自分の能力不足で、仕事をこなせなかった負い目」などが存在する場合もある。つまり、雇用主に対してなにがしか遠慮が存在するケースだ。
そういった場合の対処については、人それぞれだろう。ここで問題となるのは請求できない残業代を「貸し」と考えるマインドである。断じて言うが、サービス残業は企業に対する貸しとはならない。なぜなら相手がそれをサービスと考えていないことが多いからである。
もしもあなたがやむを得ない事情で残業を余儀なくされた場合、それを企業に請求するかどうかはあなた次第である。だがここで大切なのは、請求しない場合にそれを決して貸しと考えないことだ。
では、なぜ私が今こういったことを書いているのか? それは「貸しを作っている」という錯覚やマインドが、本人や企業にとって大きなマイナスを生む要因になるからである。
貸しと錯覚して身を滅ぼす人たち
例えば、かつて私がパチンコ店で知り合ったAさんは、営業職として過酷な条件で働いていた。当時彼が勤めていた会社では、営業職に残業が付かなかった。彼は常に会社に対して不満を持ち、様々な方法で報復に出たのである。
・商品の横流し
・事務費のちょろまかし
・領収証不正
・営業車からガソリンを抜き取り
・勤務中にパチンコ
「バレるまでは遊ぶ」とうそぶいていた彼だったが、ある日を境にプッツリとパチンコ店に来なくなった。私はそれきり彼を見ることは無かった。
例えば、私が以前に倉庫業務をしていた頃に梱包係だった老人は、かつて営業職だった頃、会社の売り上げに手を付けて競馬に通い続けた。穴を空けた数百万円を返済できるまでの6年間、ボーナス無しで働き続けたという。彼の場合も、きっかけは自分に対する待遇の不満だった。
逆の例もある。私の友人は教師だったが、本来の仕事以外の雑用をことごとく断り続けた。その代わりにキャリア組では無くなったが、納得済でしたことだと彼は私に話した。私は、彼が取った行動が潔く立派だと感じた。彼は今、趣味や執筆を通して悠々自適に生きている。
考えてみると、今回の失敗例としてあげた人々は、自分の労働に対して対価を求めなかったわけである。その半面、会社に対して貸しがあるという錯覚を持ち続け、問題行為に及んだ。
これは「これだけ貸しがあるんだから、俺だって…」という憤懣と甘えが共存していたといえるだろう。特に私は、「これだけ貸しがあるんだから」と考える部分に問題の出発点が存在していたのではないかと感じる。
かつて私は、父から「会社に貸しを作れ 作り続けろ」と教えられて育ってきた。だが後年になって、それが大きな間違いであることに気付いた。貸しとは本来、本人が貸しと考えた時点で「貸し」とはならないのである。
だから私は今ここで、次のように提案したいと思う。会社における労働の目的を以下の3通りと考えるのである。
・賃金を得る
・自己研鑽
・ボランティア
自分の労働がこれら3つに分類されるのであれば、そこにサービスなど存在しない。同時に、会社に対して恨みを抱く必要も無いのである。
もしもあなたが、ちゃんと対価を請求できると考えるならば、請求するだけの潔さと勤務態度が必要である。逆にそれができないのであれば、それは自分自身のために行った仕事であり、そこに貸し借りなど存在しない。
今回は、自分が勤務時間中にギャンブルをしたり会社の物を私物化したりする人たちに警鐘を鳴らす意味で書かせていただいた。あなたの参考になれば幸いである。
奥井 隆